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感性の在り方

~感性の在り方~

感性とは何か?

視ること、
聴くこと、
嗅ぐこと、
味わうこと、
触ること。

感性を豊かにすること。
五感でいっぱい深呼吸すること。
感じること自体が面白くなる。


感じるって何だろう?


海辺へ行ったら、
すぐさま裸足になって
砂浜を歩きまわり、
大の字におもいっきり
仰向けになって
心地よく空を見上げること。


空を見上げ、
雲の流れを観察しながら、
綿状の雲の色彩美を感じること。


森林を散策しているとき、
ふと花の匂いを感じながら、
季節の変化を感じること。


花の匂いを感じながら、
昔のことを思い出し、
同じ匂いを感じた
懐かしい人々や土地に
思いを馳せること。


音楽を頭の中で奏でながら、
リズムを取って
全身を動かすこと。


身体を動かすことで、
新たなヴィジョンが
生まれること。


新たなヴィジョンが、
次の希望となること。



感性を豊かにすること。

毎日が面白く、
好奇心いっぱいで、
活き活きした日々を
実感できる。
そんな気がする。


日々の感性の在り方が
問われている気がする。

感性をより深めるために
一日一日を大事にして
いきたい。











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「「フーガ=浮昇の技法」試論(感性稿)」、本当の感性とは何か?(其の3)

-感性編-


「フーガ=浮昇の技法」試論

今まで論じてきた試論は、
試論とは、
相手に自分の私論を披露すること。

今まで語ってきた感性とは、
本当の感性ではない。

自分自身が「浮昇の技法」に陥っているのだ。
べートーヴェン自身がフーガと成ったように、
芸術には、危うい技法が付きまとっているのだ。

書き出すことによって、
論理的に上昇して、そして浮遊しようとする。
それは非-日常の世界に逝くこと。

もう読者の方々はお気づきではないだろうか?

音楽分析編、音楽美学・演奏論編と
続いてきた今回の試論は、
著者自身の聴取論である。

著者がフーガを、音楽を、世界を
このように捉えていたということだ。

自分自身の頭で思考した聴取論を
披露したということ。

本当の意味での感性ではない。
それは、思考を伴う聴取論である。






感性とは、
本当の感性とは、
思考を伴わない。






本当の感性とは何なのか?




考えを止めよ!(Halt!)
お前のとんだ思い違いだ!(Das hast du dir gedacht!)




-3つの引用-


Ⅰ.

「止まれ、お前はあまりにも美しい!」
ゲーテ『ファウスト』より


Ⅱ.

-神秘的なるもの-
6.432 世界がいかにあるか、ということは、
      より高次の存在にとっては全くどうでもよいことだ。

6.44  世界がいかにあるかが神秘なのではない。
      世界があるという、その事実が神秘なのだ。

6.522 いい表わせぬものが存在することは確かである。
      それはおのずと現われ出る。それは神秘である。

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より



Ⅲ.

「驚嘆と畏敬の念を持って」、
われわれの心を満たしてくれるものが二つある。

それは「私の上なる星をちりばめた空と
       私のうちなる道徳法則」である。

 カント『実践理性批判』より一部改





自分が在るという根源的な事実。
この事実だけは、本物だ。

ここに在るということ。
これこそ本物だ。

在ることが在るのだ。

そうか、そうだったのか。

今ここに在るということが
ありがたいことなのだ。

在り難い、有り難い、ありがたい。

肯定して肯定する、
その先に在る肯定は、




希望である。


今ここに在るということ。
それを感じていること。


自分の感性。
息する感性。

生きて息する感性。
いきいきする感性。

息はどこへたどり着くのか?

腹だ。

「腹を据える」

腹を据えれば、
浮いたりしない、
あがったりしない。
腹中心の文化。

そうだ、
日本に今在るのだ。
日本に在ることが
ありがたいことなのだ。

それが本当の感性。

感性稿の
完成。




<補遺:希望の音楽>


生きて在ることへの感謝を教えてくれた作品。
ベートーヴェン:
 弦楽四重奏曲第15番第3楽章(作品132)
「リディア旋法による病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」

晩年のベートーヴェンは、
自分の生命自体を音楽に書き出した。
晩年の作品の凄さはそこに在る。

芸術家として
とてつもない高い高い領域へ
達することの出来た稀有な存在。
それが、ベートーヴェンなんだと思う。


生きているということ
そこには必ず何らかの
意味があると思う。

みんな生の使命を全うできる、
かけがえのない唯一無比な存在だ。

挫けたり、つまずいたり
道は平坦ではないけれども
希望を捨てない限り
希望という名の道は永遠に続いている。

生きているということ自体が
ありがたい事なんだ。

生きているということ、
希望が在るということ。

そのことに気付かせてくれた
ベートーヴェンの晩年の作品、
そして、今ここに在るという事を
感謝したい。

最後に、
晩年のBeethovenへ
敬意を表して捧ぐ。
ありがとう、
ベートーヴェン。



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「フーガ=浮昇の技法」試論(完成稿)(其の2)

-音楽美学・演奏論編-

次に、浮昇の技法の紹介。

Beethovenのフーガには、浮昇の技法が在る。
浮昇の技法の定義。

A.浮遊する行為
B.上昇する行為

この二つの行為が我々に提示される。

A.浮遊するとは、聴き手の感性が浮くことを意味する。
B.上昇するとは、楽譜(partiture)、
 作曲家の意志、作品構造の理性部分を意味する。

A.浮くという意味は、つまり作品を聴いていて、
 感覚的により敏感に感じ取り、一瞬浮遊すること、
 感性以上の感性、trans(超える)、
 脱我状態、いくといった、
 言語化では説明できない語りえぬ領域でも在る。

B.上昇するとは、
 文字通り音符が低音域から高音域へと移行すること、 
 また速度や力動的な強度を増した状態になること、
 また作曲家自身が そこに上昇する意志をもって
 創造することでも在る。

B.はあらかじめ作曲家が意図して準備された段階で
作曲する行為が行われるので、
理性を用いた極めて合理化された技法になる。
 
だからフーガにおいてDux(主唱)-Comes(応答)が
基本であるから、一つの主題が奏でられて、
次にその応答として逆フーガ主題が奏でられる。
そして最後は、クライマックスで持って曲が締められる。

Beethoven以前にもある技法で作曲すること、
表現すること、表出することにとっては
一つの雛形といえるだろう。

Fuga〔フーガ〕とは、ラテン語から由来する
「遁走」という訳語で知られた音楽用語である。
遁走とは、疾走するということか。
決して逃走するわけではないが、主題から離れながら
形を変えながら曲が進行していく様は、
軽やかな意味合いでの疾走と主題から逃走する意味での
二つ併せ持った作用があるだろう。

Fuge〔フーガ)とは、
ドイツ語で、
1.継ぎ目・接合、
2.割れ目・すき間の意味を持つ。

aus den Fugen gehen(geraten)
=ばらばらになる、支離滅裂になるという意味合いも持つ。

このことからFugeも、解放、解体両方を併せ持つ。
ここで、Beethovenは狭義の神学から抜け出し、
自分史のなかでのカオス〔悩み〕からの解放として、
フーガに託したのである。



Beethovenは、Haendel(ヘンデル)を尊敬していた。
なぜなら、ヘンデルのフーガには明るさ、明瞭さがあるからだ。

希望のフーガがヘンデルには在る。
Bachよりもhaendelを尊敬していた理由、
それはフーガ技法において志向性が類似している為でもあると思う。
楽観的なフーガ、希望のフーガ、解放のフーガ、
Beethobenにはそれが必要だった。

破壊と創造の繰り返し、そんな作曲行為をしていた
Beethovenにとって、昇華する技法がなによりも必要だった。



前時代の埋もれた技法「Fuge〔フーガ〕」を再生し、
再現前化させること。なによりも、
ゲーテ『ファウスト』の音楽化を生涯の目標に
していたのだろうと思う。



Beethovenに降りかかる受難は、
フーガによって音楽上で昇華される。
音楽に書くことでBeethovenは救われたのだろう。
そして書き出したことで、ついにピアノソナタ第31番において、
悟ったのだろう。こういうことだったのかということが。
最後の最後の箇所あたりは、16分音符の戯れのなかで、
疾走して解放された、無垢な喜び、意志そのものが見える。
そして一番最後に天へと駆け出した階段の様を
見て取れることができる。

それが力への意志(Die Wille der Kraft)
上昇線。
Beethovenなのだ。
上昇線がBeethoven自身に成っている。



上昇させる技法(B)の意味について。
この上昇する技法(B)とは、
聖書の世界観と全く同一。
西欧音楽の枠組み。
それは、現世からの救済である。

曲が最後に向かうほど、上昇されていき、
最後にクライマックスで締め括られる。
キリスト教世界では、生きていること自体が苦しみであり、
人間が死ぬことで天へと昇華されて、
最後に天国において救済されるという物語の基で成立している。

まさにフーガはこうした世界観と同じなのだ。

だから、音楽=神学であったし、音楽=現世でもある。
キリスト教世界において、音楽が特殊な立場にあるのは、
聴覚で神学を理解することができるからだ。

音楽作品を聴いていて感動して、浄化する作用があるのも
こうした神学上で音楽が成り立っているためである。



次にA.の浮遊する行為について。
Beethovenのピアノソナタ第31番最終楽章フーガで、
浮昇の技法Aを感じ取る箇所は、以下。

1.12(124)ページ9小節目付近。
  グレン・グールドが、一瞬速度を緩めて弾いた箇所。

2.15(127)ページ最後の小節付近。
  As-G-F-Es この高音の主題が歌われる箇所。

3.16ページ全部
  最後のクライマックスの箇所。

(註1)
以下の動画で、演奏部分を確認でできます。

Glenn Gould - Beethoven, Sonata No 31 Op. 110 - III (2/2)

1.1分28秒付近
2.6分36秒付近
3.6分39秒以降
http://www.youtube.com/watch?v=UJG8VqU8XNE

このA.浮遊する行為はきわめて説明しづらい。
なぜならば、聴き手に委ねられているからだ。
一人一人感性が違うのは明白だし、
そもそも感性を定義すること自体、理性の罠にはまっている。
だから、そういう気がする程度しか伝えきれない。

音楽を聴いて、涙する。震える。ジヮッとする…。
なにか感じたことはないだろうか?浮く瞬間、
それは脱我状態といっていいのだろうか?

一ついえることは、非-日常の瞬間になってしまうことだ。
感覚が浮遊する行為とは、日常の世界から解放されて、
一瞬で非-日常の領域へといってしまうことかもしれない。
この非-日常とは、プラトンの真善美の美、つまり芸術のことだ。

我々は、真実を知ろうと生きながら、善を求め、
美を追求して生きていると仮定する。

真実とは、科学や心理や真理ありとあらゆる世界現象。

善とは、人間が保つべき道徳、倫理とは何か、
そういった規範を欲する人間の価値判断。

美とは芸術/創造/受容のことである。
要するに美は、絶対的に必要ではなく、
日常と非日常のあいだを行き来する遊びの領域でもある。


もう読者の方々はお気づきかもしれないが、

「浮昇の技法」とは、
神学(善)の人間にとって必要不可欠であった
音楽が、Beethovenの「浮昇の技法」をもって、
音楽が美(芸術)になってしまったことを意味する。
つまり音楽は非-日常のMittel〔媒体〕になったのだ。
テレビや娯楽、劇場、映画、絵画そういった非-日常の媒体。


音楽には魔力が在る。
浮昇するということ(A+B)は、今ここにあらずということ。
日常を営む人間にとって、浮昇するということは危ういのだ。
なぜならば、今を生きなければいけないのに、
今ここにあらずではいけないということだ。



J.S.Bachの時代。
グレングールドの「浮遊する行為」とは。
それはオルガンによって厳格に神学の儀礼の日課として
音楽の営みが行われていた。
Walchaのオルガン演奏(註2)には、
そうした神学の系譜としてオルガンが在ることが、
うかがい知ることができる。

グレン・グールドは、理性(神学の教義)化されている
ガジガジのバッハ像を解放した。Walchaのオルガン演奏から
グレン・グールドのピアノ演奏へと時代が移った。

Walchaには、オルガンのペダルが在った。
厳格なる低音の地に足が着いたバッハ演奏が聴けた。
そこには浮遊する瞬間すらない。
なぜならば日課だからだ。日常で在る。
神との対話。

グールドの演奏は、
Bach自身すら気づいていなかっただろう感性×感性の遊び、
神学からBachを持ち出して、
Bachを現代へと連れ出し、
新たなBachを暴き出した、
剥き出した浮遊するBach。


以下Bach演奏
Glenn Gould - Bach - BWV 891 - Fuge
http://www.youtube.com/watch?v=Q5Mv3T3ANjY&feature=related
2分11秒のあたりが浮遊する箇所である。

Bach / Art of fugue - Contrapunctus01 / Glenn Gould
http://www.youtube.com/watch?v=zwkzf-KUNPM&feature=related
3分55秒のあたりが浮遊する箇所である。


美しい、実に美しいバッハがそこには在る。
美しすぎる美しさ。

危うい、非-日常と日常の交叉。
感覚美、感性美。
好きである演奏法。

しかしである、しかし、
グレン・グールド自身ですら、
この浮遊する行為に酔ってしまっている。
この危険性は、脱我状態になることで、
演奏者=聴き手になってしまうことだ。
グールドは戦略として浮遊する技法を用いているにもかかわらず、
自らもその技法に溺れてしまっている。

A.浮遊する行為の危うさがお分かりだろうか?

(註2)
Bach - Passacaglia and Fugue in C minor - 2/2 - Fugue
http://www.youtube.com/watch?v=OAXqRC78u98


-音楽美学・演奏論編-

其の三に続く。
-腹の文化へ-






















「フーガ=浮昇の技法」試論(完成稿)(其の1)

-音楽分析編-


フーガ(Die Fuge)、
それはJ.S.Bachが音楽の形式として成立させた
神学上の一つの技法。
フーガには、
宗教儀式としての祈りの作用、
音楽形式の中での締めの作用、
この二つ作用が在る。


フーガは、
J.S.Bachが完成させた形式である。
それをBeethovenが「浮昇の技法」を編み出して我々に提示した。

Beethovenは、
何を我々に伝えたかったのだろうか?

これから提示する試論は、音楽自体が持つ作用/効果も
論じることになるだろう。
Beethovenのピアノ・ソナタ第31番最終楽章フーガ部分を
参照してこれから論じることにしよう。

音源は以下の映像、グレングールドの演奏。
http://www.youtube.com/watch?v=UJG8VqU8XNE

~音楽分析~

♪しばらくは、楽譜を参照します。
この箇所は楽譜の読める方対象です。読まなくても構いません。
(以下のサイトでは、楽譜を印刷することができます。)
http://imslp.info/files/imglnks/usimg/a/a3/IMSLP51805-PMLP01488-Beethoven_Werke_Breitkopf_Serie_16_No_154_Op_110.pdf


ピアノ・ソナタ第31番は、
第一楽章、第二楽章、第三楽章に分けられる。
第一楽章は、主題の提示・展開・再提示など。
第二楽章は、Klagender Gesang「嘆きの歌」(アリオーソ)。
第三楽章が、フーガ。

第一楽章には、今まで在ったBeethoven自身の思い出、
回想、自伝的要素が展開される。
第二楽章には、Beethoven自身が苦悩に満ちた際の悲しみ、
絶望、慰め、悲哀、そういった「嘆きの歌」が展開される。

ここまでは、よくある一芸術家の表現方法といえるだろう。
これだけでも、芸術=自己表出行為として立派な作品であると思う。


問題は、この次の最終楽章の展開にある。

第三楽章、フーガ
ここには、
Beethovenがひとつの意志(フーガ主題)を貫き通して、
苦悩を背負い(「嘆きの歌」)、
そして天からのメッセージを受けて(逆フーガ主題)、
自分なりに消化して昇華していく様(コーダ)を見ることができる。


楽譜11(123)ページ

Fuga
As-Des-B-Es-C-F-Es-Des-C
最初から5小節までがフーガ主題(a-1)。
Es-As-F-B-G-C-B-As-G
5小節から9小節までがフーガ主題(a-2)「五度上」。
フーガ主題(a)が曲を支配している。

20小節のフーガ主題(a-2)が低音で奏でられる。
指摘したいのは、37小節のEs-Esと続く箇所。
Es-Esの後者は、フーガ主題(a-2)の始まりのEsなので納得できる。
前者のEsは、何のフーガの構造に寄与していない。
厳格なBachならばこのEsは付けないだろう。
Beethovenは、
表現の誇張(exaggeration)としてこのEsを用いたのだろうか?

次に12(124)ページの最初の小節から、
フーガ主題(a-3)が低音で始まっている。
このあたりは、
完全に旧来の厳格なフーガの枠から外れている展開の仕方。

12ページ冒頭から数えて9小節目では、
グールドの演奏で多少テンポを変化させて、
音楽に揺らぎを与えている。
このあたりは、感覚的に浮遊する箇所かもしれない。

26小節目からの低音Es-Es-Es-Es-Des-C-B-C-Desの動きは、
Beethoven自身の不器用さからくる音の連なりと言えようか。
この不器用さが、Beethovenらしさでもある。

このEsの連打はこの曲全体の一つのキー(鍵)になっている。
12ページの一番最後の最後の小節も16部音符の連打になっている。
この連打は、人間(Beethoven)自身の
苦悩・停滞・鬱血の表現ではないだろうか。
13(126)ページの「嘆きの歌」は、
常にこの連打で始まり連打で終わっている。
この表現法。なかなかできるものではない。
なぜならば、曲自体が停滞してしまうからだ。
Mozartはまずこういった作曲はしない。
自然的ではなく、
頭で思考されて作られた石(意思)のようなものだ。

この「嘆きの歌」の箇所は、第二楽章とほぼ同じ進行だが、
違う箇所がある。17小節目のHの部分だ。
B-A-D-H-H・・・
このHは、嘆きの歌のmoll(短調)からDur(長調)に変わっている。
そして、連打を10回奏でる。
ここもきわめて、人工的であり不自然極まりない。
こういった箇所で何をBeethovenは伝えたいのだろうか?
最後の2小節は現世からの悩みを断ち、天へと昇るかのようである。

14(126)ページから
逆フーガ主題が始まる。4小節目のFis-G-A-Hの部分。
ここは、極めて教会旋法の神秘的なメロディーである。
この箇所は、Beethovenが作曲してきた中で、
今までにない珍しい響きのする象徴的なところだと思う。
まさに、天からの応答なのだろう。
フーガはDuxとComesから成り立つ。
Duxは主唱であり、Comesは応答。
フーガ主題(a)と逆フーガ主題。12ページと14ページ。

天からの応答に、Beethovenは12小節目あたりから拒否反応を示す。
12小節目の低音G-F-Esの下降線。18小節目の16部音符D-C-Hの下降線。
このあたりは、
人間自身は挫折や失敗を繰り返すことを象徴しているような箇所。
12小節から25小節までの低音の音型は、
人間から聖人へなろうとしてもなれない
転びのようなもののイメージ化。

最後の2小節は転びの中で
「わかった・・・。」
この世界認識の理解をもって、
これからBeethoven自身の創作活動を
全うしようと決意した瞬間。

嬉しさ、ひらめき、希望、善などがイメージできようか。

それが14ページの最後の2小節~15(127)ページの5小節まで。
ここで指摘したいのが、
15ページの4小節目。
F-G-As-B。
このモチーフ(動機)は、
まさに先ほど神秘的な教会旋法と紹介した
12ページ4小節目と同じ音型なのだ。
この表現の一致は、絶対に意図的だ。
天のメッセージとBeethovenの意志が一致した瞬間だ。

15ページの5小節目から始まる最後のクライマックスは、
低音のフーガ主題が、
意気揚々と自信と確信をもって奏でられ、
そして壮大に曲は締めくくられる。
最後の最後で、天へと昇華していくのである。

こうしてみると、
意図的に人工的に、
旧来の「フーガの技法」を
Beethoven自身が
自分史の中にフーガを取り入れていると
感じずにはいられない。
フーガ=Beethovenになっている。

~音楽分析終了~

其の2に、
続く。










 






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